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ニートが働いたかもしれないブログ。

無職ひきこもりニートを10年プレイしたひとの妄想劇ブログ。

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ニートが語る不登校から帰還兵になった話(仮)②/意味もなく。ただそこにある箱庭世界。

「不登校帰還兵」の話

「何のためにここに来てるんだろうか。」

 

オレは13歳の夏にはすでに学校に行かなくなっていた。その年の、というか数日前までの夏休みまで普通に友だちと遊んでいたけれど。

 

前回「ニートが不登校から帰還兵になった話(仮)①/『遊びたい』からで90点を取ったんだ。」

 

もう『理由』はなくなっていたんだ。

 

学校へ行く理由。

 

「友達と遊びたいから」というかつての理由はすでにそこにはなかった。なぜならば、すでに「もう遊んでしまった」からだ。

 

「何かどうでもいいこと話してるなあ。」

 

この頃は誰でもあるかもしれないけれど、とにかく精神的に揺れる時期であるね。

 

いわゆる思春期。

 

知性の発達と経験が生み出す「なぜなに」という「問い」や「考え」によって自分なりの世界観が生まれていくからそうなる。

 

中2病やらなにやらと様々に狂気じみた発言や行動をひきおこして僕たちを「何者か」にしようとする。

 

それはさながら殻を破って「誕生」しようと「もがきうごめいて」とにかく動き回るがごとくである。まあとにかく「話が合わなくなってきた」感じが強めになる時期なんだよね。

 

レダレと付き合ってとか、

 

ドコソコの高校がどうとか、

 

ラリラリのテレビがどうやら、

 

モー娘。がどうたら、山Pがどうたら、ケミストリーがどうたら、

 

その服ドコデとかカミソメチャッタトカ、中には覚せい剤の話に憧れるようなやつまでいる中2ハザード。

 

そして、おっぱい。

 

もう「知恵の実」を食べたアダムとイブのごとくに、新しいことに触れて蠢き始める中2たちの園でありますよね。

 

とにかくそういう時期で、

 

おっぱいの話以外は全然合わないんだよね。

 

おっぱいについては全然まったく苦しゅうないのだけれど、なんかその他のお話はほんとにどうでも良くなってくる。

 

「え、なんで釣りの話とかもうしないの?」

「え、ゲームの話はしないの?大航海時代コーエー)の話は?」

「え、リチャードザ・ライオンハーティッドことリチャード1世の勇猛さは名将と呼ばれるに相応しいものか?では、そうでないならばどの軍事的天才がそれに相応しいのか?」

 

なんかだんだんと寂しくなってくるというか、

 

「ああ、もうこういう感じになっていくのか。これからは。」

 

なんて「この人生の続き」を考えると、それはオレにとってあまり喜ばしいものではなかった。

 

 

オレは当然勉強もしなかったから、やはり「勉強のために学校へ行く」という選択肢は存在しなかった。

 

そして友達と遊ぶという選択肢は、「もういいかな」という感傷のようなものによってかよらずか、選択肢からは消えた。いや、選ばなかった。

 

 

「どうせこれから分かたれるのなら、いいんじゃないのかね。」

 

 

たぶん、当時はそこまで明確ではなかっただろうけれど、今にして思えば、そんな理屈展開だったのだろうと思われる。

 

やはりこの理屈によってかよらずか、

 

つまり共同生活の中ではそれなりに不都合な点もあるわけであり、そのなかで、「どうせ失われるもののために高価い維持費を払うのも馬鹿らしいな」といった計算によって、

 

その場に踏みとどまるやり甲斐を失ってもいたのだろう。

 

 

さあ、

 

「勉強もしない。理由がないから。」

 

「遊びももういいか。友達がどうせそうでなくなるのなら。」

 

つまり「学校指定の勉強」と「社会性」という教育的2大理由を失った学校にあとどれだけの価値があるのだろうか?

 

 

それは無かった。

 

 

 

ただし、常人になら「圧力」が存在する。

 

「学校へは行くもの」

「子供は学校へ行って生活するもの」

 

という圧力。

 

「義務教育だから」という圧力。

 

その先を答えられる者のなんと少ないことだろうかという圧倒的圧力。

 

なぜ?

どうして?

何の理由が?

何の意味が?

何の価値が?

 

みんな行ってるから行きなさい。

 

あるいは、

 

みんなやってるからやりなさい。

 

たしかにこれは「ある意味で実践知」だろう。

 

たしかに大勢の知性持つ人間たちが「みんなやってる」ことにはそれだけの意味があるはずだ。だから何らかの意味があるだろうしだから何らかの価値があるだろうし。

 

でもその意味まではわからない。

 

だからなんとなしに死従うしか無い。自分で考えることをせず、圧力に従う。別に「屈する」というわけではないほどそれは自然に行われる。

 

まるで「神のご意思によって」といわんばかりなものとして。

 

だから説明してもくれないし、なんら納得のいくことなど教えてはくれない。考える機会も特別与えられないし、またそうすることを良しとしない圧力がやはりそこにはある。

 

給料もらうためにやってる人達なだけだから教員は。

 

 

社会に出たことのない教員という名の「フラスコの中の巨人」たちに威張られるだけの世界としかオレには映らなかった。

 

 

オレの兄はそんな教員になった。

 

そこであらためて現在では「教員の人の大変さ」を客観的に認識できる様になったけれど、

 

だからといって「この考え」が変わることもなかった。

 

すなわち、

 

意味の認められないところで意味を説明されず意味もなく居ることの意味の無さは異常である。」

 

従ってまた、

 

意味がない。

 

 

自らの理性の光によって暗闇の中を歩いていこうとする啓蒙的な考えが芽生えていた。

 

 

それがどんなに小さく頼りないもので、世の中からみれば「損」にしかならないようなことになろうとも、

 

 

それは「自分の考え」だった。

 

 

これは何も自分が特別に優れていただなんて言うことじゃあない。

 

いまだ考えの薄弱で小さい場合には、経験豊富な存在の言うことにとりあえずにせよ従って経験を積むなどの行程は何ら不思議な事ではないし、しばしば誰であってもそういった選択をするなり、また本能的にそうなるだろうし。

 

ただその時々において人は個性的に成長するものだし、その時期も方向も本来であれば様々だ。背が早く伸びて早く止まるものもいれば、その逆に遅く伸び始めて大きくなるものもいる。

 

それぞれにそれぞれのタイミングでそれは唐突にもやって来るということ。

 

 

そして今にして思うのだけれど、

 

「小・中・高学校などの総合教育が、古代から存在する「リベラル・アーツ」的な教育思想のもとに制定されているのならば、なぜそれを統合するべき要とされる『哲学』をさせないのだろうか?

 

哲学はその人の「人生のおけるスタンス(姿勢)」を定めることに不可欠だというのに。

 

そして「それ」が定まらないのならば、

 

自分の人生にとって「なにが良く」「なにが必要でないか」などわかりもしないであろうに。

 

従ってまた「何のために何を勉強したらいいのか」もわからないだろうに。

 

 

そしてやる気のない冷えきった自分を叩き続けて折れてしまうのだ。

 

 

「嗚呼、だから“あの時間”は無駄なんだ。無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄。」

 

 

という具合に中2心を駆り立ててやまなかったツッコミどころ満載の箱庭学校にサラバ。

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